作詞家、詩人、小説家として昭和史に多くの歴史を残した阿久悠。氏が70歳の若さで世を去ってから、早いもので1年がすぎた。30代以上の人であれば間違いなく氏とともに時代を生きてきたことになるわけで、そのペン先から放たれた多くの歌詞を聴き慣れたメロディとともに確認するたび、功績の大きさをいまなお実感できるのはずだ。
1937年2月7日、兵庫県淡路島生まれ。1959年に明治大学文学部卒業後、広告代理店の宣弘社に就職。この時期にCMの制作や番組の企画に携わったことが、のちの活動のスタートラインとなった。1965年に退社してフリーとなったわけだが、考えてみるとこのペースからして早い。なにせ65年といえば、大学卒業からわずか6年。退社後すぐに作詞、小説、エッセイなどの執筆活動にはいったというが、つまりは28歳にして基盤を形成していたことになるからだ。ちなみに音楽番組の台本を書いているとき、歌手が歌う歌の歌詞を書き写しながら独学で作詞の勉強をしたというのは有名な話。ただラッキーなだけではなく、人並み以上に努力したからこそ時代をリードできたということだろう。
はじめて採用された歌詞は、ザ・スパイダースのデビュー・シングル「フリフリ」のB面に収められた「モンキーダンス」。続いてザ・モップスの「朝まで待てない」を大ブレイクさせ、人気作詞家としての道のりを本格的にスタートさせた。出発点となったグループサウンズについていえば、他にスパイダースの「リトル・ロビー」、「ロビー・ロビー」、ズー・ニー・ヴーの「白いサンゴ礁」、ザ・タイガースの「十年ロマンス」、「色つきの女でいてくれよ」などがある。
やはり絶頂期は70年代で、1971年の尾崎紀世彦「また逢う日まで」、76年の都はるみ「北の宿から」、77年の沢田研二「勝手にしやがれ」、78年のピンクレディー「UFO」、80年の八代亜紀「雨の慕情」と、10年の間に日本レコード大賞受賞曲を5曲も生み出している。加えて73年のペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」と山本リンダ「じんじんさせて」、75年の菅原洋一「乳母車」をはじめ96年までの間に日本レコード大賞で作詞賞を7回受賞し、さらには76年の都はるみ「北の宿から」や77年の沢田研二「勝手にしやがれ」などで、日本作詞大賞も8回受賞。まさに、才能と時代ががっちりかみ合っていたとはいえないだろうか。
余談ながら僕の世代では、ペドロ&カプリシャスや山本リンダ、沢田研二らと並んでやっぱりフィンガー5とピンクレディーの印象が圧倒的に強い。とはいえ活動期間内に5000曲を超える歌詞を書き、ジャンルも演歌、アイドル歌謡、フォーク、ロック、CMソング、アニメソングなど広範なわけだから、世代によって思いは様々だと思う。一周忌を経たいまふたたび、懐かしのヒット曲に耳を傾けてみてはいかがだろう。
(Text/印南敦史) |