TOP > スペシャル特集 インデックス > 「アーティスト特集」インデックス > アーティスト特集 NSP

 

FEATURED ARTIST NSP 特集

>>アーティスト・スペシャル・プレイリストはこちら

「夕暮れ時はさびしそう」や「さようなら」をはじめ、「あせ」「雨は似合わない」「お休みの風景」「赤い糸の伝説」「愛のナイフ」などの数々のヒットで、叙情派フォークの代表的グループとして活躍したNSP。70年代に青春をおくった音楽ファンにとっては忘れられないグループだ。87年に活動を休止するが、2002年、16年ぶりにオリジナル・メンバーで復活。全国をツアーで回り、2005年には19年ぶりのオリジナル・アルバム『Radio Days』をリリースした。しかし、これからという時に、リーダーの天野滋が病気のために亡くなり、復活後3年間の活動に終止符が打たれた。今年(2007年)の7月に「NSP LIVE 2007 SONGS〜歌は世につれ〜天野滋トリビュート」と題し、高橋ジョージ、林龍之介(平川地一丁目)、南こうせつ、細坪基佳、鈴木康博、charをゲストに迎えて、NSPとして最後のコンサートが開かれた。今回は、NSPのメンバーである中村貴之さんに、当時のことや今後の活動についてお話を伺うことができた。

■中村貴之インタビュー

2007年7月の天野さんのトリビュート・コンサートについて

NSPとしては最後のステージというか、天野の代りに、参加していただいたゲストの方が歌うという形のコンサートでした。今後二人でやっていくとか、今の段階ではまったく考えていないですね。二人で演奏すること自体は、それはそれで楽しいとは思うんですが、ただ、二人一緒にいると天野だけがいないということが、自分たちにとってもファンの方にとっても、一目でわかるわけなので、そういう形は見せたくないなというのがあります。

来年(2008年)、中村さんのソロ・コンサートがありますが、今後はソロでやっていくことになるのでしょうか?

そうですね、当分は。いつまで出来るかなということもありますが、還暦をめざしてゆっくりゆっくりやっていこうかな、と思っています。平賀も音楽が大好きなので、この前も元ふきのとうの細坪くんのバックをやったりとか、スケジュールがあった時にライブに出るというような活動になっていくんじゃないでしょうか。

NSP結成以前はどのような音楽を聴いていたのですか?

本格的に音楽に目覚めたのはグループサウンズですね。中学1年生くらいだったと思いますが、カーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」に衝撃を受けまして(笑)。バンドってカッコいいなとその時思ったわけです。ドラムがやりたくてしょうがなくて、すぐに仲間とバンドを作ってやり初めたんですが、機材もないし、メンバーもギターが弾けないし、1曲も演奏できずに終わっちゃいましたね(笑)。

洋楽は聴かなかったのですか?

岩手という環境のせいもあると思うんですが・・・。確かビートルズが初来日したのは、僕が中1の時で、それもカッコいいとは思ってましたけれど、こっちではラジオのキー局とか入らないし、あまり耳にしないんですね。結局、テレビでやってる曲しか身近になかったから。ラジオをよく聴くようになるのは高専に入学してからですね。合格祝いがラジオでしたから。一ノ関だとニッポン放送が入るんですよ、僕が住んでた宮古では電波が届かなかった(笑)。ですから、ビートルズとかは知ってましたけど、グループサウンズに熱狂してましたね。

高専に入ってからバンドは本格的に始めたんですか?

中学2年から本格的にバンドを組みまして、3年生の時、卒業式の予餞会に、ビートルズからグループサウンズ、ブラザース・フォーとか、いろんな曲をぶ厚いハーモニーで聴かせる7人組みのバンドで出演して、講堂を満員にしましたね。
高専に入学して、平賀とすぐに仲良くなり、中学の時にバンドをやってたという話になって、俺もタイガースをやってたよ、とか、そんな感じで始まってるんですね。当時はベースを持ってる奴は珍しくて(笑)。高専で組んだ最初のバンドは、先輩と一緒の5人組のバンドだったんです。リード・ギターが僕で、ベースが平賀、そして先輩二人がドラムとキーボード。最期にメンバーに誘ったのが、僕と同じテニス・クラブにいた天野だったんです。そんなにギターが弾けるという段階ではなかったんだけど、無理やりギターを買わせて(笑)。先輩が卒業してそのバンドは解散して、しばらく別々に活動していた時期があって、僕は赤い鳥スタイルのバンドを作っていたんですが、やはりメンバーが卒業とかでいなくなって、バンドのさよならコンサートをやった時に、天野と平賀に手伝ってもらったんです。その時に拓郎の「人間なんて」をやったりとか・・・、その時のイメージが強かったのか、周りから「3人で一緒にやれば」と言われて・・・。それがNSPの始まりですね。最初は、ロック・バンドだったんです。グランド・ファンク・レイルロードみたいな(笑)。当時、僕が一ノ関で作っていたフォーク団体があったんですが、その定例コンサートに出るたびに、僕らだけ機材を揃えなくちゃいけないので、お金がかかるということで顰蹙を買って(笑)。それで、天野も何曲かオリジナルを作りはじめていたし、フォークでもやるかと(笑)。

フォークをやるようになっって影響を受けたアーティストとかいますか?

NSP3人として影響を受けたのはあまりないと思うんですが、ただ、拓郎さんはすごく好きでしたね。天野は拓郎派で、僕はどちらかというと陽水派でしたけど、どちらも聴いていました。もう一つ影響を受けたのは、はっぴいえんどですね。細野さんのベースが好きで、特に平賀は、細野さんのベースばっかりコピーしてましたね。音の取り方や動きは、かなり細野さんの影響を受けてると思います。「さようなら」のベースとか、細野さんチックというか・・・。当時、ああいうベースを弾くフォーク・バンドなんていなかったですから。ベース・ライン命というか、楽器の足りなさをベースで埋めてるという感じですね。「ちょうちょ」という曲はもろにはっぴえんどからの影響を受けた曲で、僕たちにとっては自信作で、その「ちょうちょ」と「あせ」でポプコンに応募したんです。テープ審査を通ったのが「あせ」だったので、びっくりしましたけど(笑)。ただ3声でハモるだけじゃなくて、輪唱っぽくしたり、スキャットを入れたりとか、その辺が他のグループと違っていて良かったのかもしれないですね。

デビュー前からコンサートで反響はあったのですか?

一ノ関でやっていたフォーク団体の定例コンサートに出演したとき、たまたまオーディオが好きな先輩がテープに録ったんです。それをNHK-FM(盛岡)に送ったら、番組で取り上げられ、「あせ」がリクエストの1位になっちゃんたんです。11週連続1位という・・・。
岩手県内では、アマチュア時代からすごく有名だったんですね(笑)。NHKから連絡があって、他の曲も流したいからということで、盛岡放送局のスタジオで何曲か録音したんです。TVで僕等のドキュメンタリー番組が流れたりとか、盛岡の教育会館ホールで800人くらい集めたコンサートをやらせてもらったりとか、ポプコンに応募する前から人気が出ちゃたんですね。

デビュー曲「さようなら」について

ポプコン全国大会には「あせ」で出たんですが、デビュー曲は「さようなら」でした。6月に冬の曲を出したんですが、「あせ」だと拓郎さんの二番煎じになるというか、将来的には「さようなら」のイメージで売り出したいというディレクターの考えもあったんだと思います。シングル3枚とアルバム1枚は、僕たちがまだ在学中に出しているんですね。田舎にいてラジオから僕らの曲が流れてくると感動してたくらいですから(笑)。最初のアルバムは、仙台の電力ホールで、ウイッシュのコンサートにゲスト出演した時の音源と、曲数が足りないのでコンサート終了後にお客さんがいないところで何曲か追加で録ったものです。そもそもデモ・テープだと思って演奏した曲がアルバムになってしまったので、騙されたと、当時はみんなでブーブー言ってましたけど・・・。でも、ライブならではの盛り上がり感が出ているので、ある意味良かったのかもしれませんが・・・。

「夕暮れ時はさびしそう」の大ヒット以降は?

あれで変りましたね、かなり。高専を卒業して東京に出てきて本格的に活動を開始したんですが、とにかく忙しいんですよ。その年は、年間210本のコンサートをやりましたから。最初のうちしばらくは、売れているアーティストの前座でしたから、苦労して遠くまで行っても出番が20分だけだったり・・・、やっぱりヒット曲を出さないとダメなんだと思って。ちょうどその頃、天野が「夕暮れ時はさびしそう」を隠し持っていて(笑)、シングルで出したんですね。最初は、僕も平賀もヒットするとは思ってなくて、面白い曲だなとは思いましたけどね。「ゴメン、ゴメン」という歌詞とか、最初は笑っちゃいましたからね(笑)。でも天野は自信あったでしょうね。タイミングが良かったっていうのもあるのかな?叙情派と呼ばれる人たちが出てきた頃でしたし。

同時代のフォーク系グループで親しかった人たちはいますか?

特に親しいというのはあまりないんですが、よく一緒にツアーで回ったのはアリスですね、交互にトリを取って。チンペイ(谷村新司)さんの話が面白くて、みんなでステージの袖に聞きにいくんですよ。これは、しゃべりも練習しなくちゃダメだなと思いましたね。
ヤマハのアーティストって、外部とあまり交流がないんですよ。ヤマハだけでやるコンサートが多くて。ポプコンからたくさん出てきますから(笑)、「ポプコン・ハイライト・コンサート」みたいなものに組み込まれちゃうんです。僕らはもっと外部と交流したかったんですけどね。

80年代に入って、サウンドの変化とかは意識されましたか?

まじめに音楽に取り組んでいると、同じままでいるのが怖いんですよ。いい意味で裏切っていきたいところもあるし。3人ともすごい数のレコードを聴いていたし、いい部分は吸収したり、その時々で今回はこんな感じにしようとか、変えていってましたから。その辺でファンの人たちは展開が速いと思ったのかもしれないですね。
アレンジを誰がするかで、音も変ってくるんですね。僕たち3人でやっているのが相対的には多いんですが、瀬尾(一三)さんにアレンジを任せた頃から、おしゃれな感じになってきましたね。80年代に入って、打ち込み系の音になってくるのは、僕も平賀もあまり好きではなかったですが、いろんな意味で試行錯誤の時期だったのかなと・・・。

特に印象深いアルバムは?

はじめてスタジオで録音した『U(セカンド)』ですかね。コンソールを始めて見て、こういう風に録音するんだと、見るもの聴くものすべてが新鮮でしたね。それと、LAで録音した5枚目の『2年目の扉』も思い出深いですね。音が全然違うな〜と。ミュージシャンも後にトトを結成する、ジェフ・ポーカロとデヴィッド・ペイチだったんです。アメリカで有望な奴がいるからと(笑)。セカンドはチャーがギターを弾いているんですね。「コンクリートの壁にはさまれて」は、田舎にいるときからやっていて、天野がエレキ・ギターを弾いていたんですが、チャーと出会ってエレキ止めちゃいましたからね(笑)。

NSP時代に中村さんがリード・ボーカルを取っている曲で特にお好きなものは?

そうですね、一番最初に作った「君と歩いてみたくて」や、だいぶ後期になりますが『瞬』の中の「バブル -J-に捧ぐ-」っていう曲。ジョン・レノンのことを歌った曲で、ライブをやる時はだいたい歌ってますね。あとは「My Song」。

復活にあたって

85年いっぱいでNSPを脱退してから、3年くらいソロ活動をやったんですが、その後、全く音楽から離れたんです。ギターも押入れにしまい込んで触らなかったですね。2002年に復活するんですが、その4年くらい前にIBC岩手放送のお世話になったディレクターが亡くなって、チャリティ・ミュージックソンの企画の中で久々に3人揃って演奏したんですね。その時に、まだまだやれるじゃないか、と思ったんです。3人だけで出来るじゃないかって。でもその時は、あくまで追悼のためにやったというだけなので、そのままになっていたんですが、熱心なファンの方のブログを見て、ずっと応援してくれていることがわかったり、2000年にNSPのボックス・セットを出した時に、平賀と天野が打ち合わせをしていく中でNSPの良さを再認識したりで、そこから、またやろうかという空気が出てきたというか・・・。それから1年ぐらいたって、突然天野から電話があって「やるよ」と。ただ、やるからには単発で終わるんじゃなくて、ずっとやるよと。

復活することが決まって最初にやったのはゴルフなんです(笑)。3人の雰囲気を取り戻すために。それから練習を始めたんですね。日本青年館での復活コンサートも、最初はライブハウスでいいんじゃない、と弱気な部分もあったんですが、平賀が「いやホールでやろう」と押し切って、チケットが1時間もたたないうちに完売したときはびっくりしましたね。

コンサートを見に来るファン層は?

昔からのファンといっても、一番売れている頃のファンって意外と少ないんじゃないかな。むしろ、時期的にもうちょっと後の世代、僕たちが一番売れている頃は、まだ中学生とかで、コンサートに行きたくても行けなかった年齢の人たちがメインですね。やっとコンサートに行けるようになった時は、NSPはもう無かった・・・。そういう人たちが一番熱心かなと思います。
2005年の3月の渋谷公会堂でのコンサートが最後になるんですが、まだまだ出来ると思ってたんですよね。天野もそう思っていただろうし。突然、目が見えなくなって・・・、最後の渋谷のステージは正直、辛かったですね。でも、復活してからの3年間は幸せでしたね。楽しくて楽しくてしょうがなかったです。ライブをやり、地方に行ってはおいしいものを食べて・・・。そういった姿をファンの人に見ていただけたことが本当に嬉しい。

平川地1丁目やピースなど、NSPフォロワーのようなバンドが出てきてますが、どう思いますか?

そういう人たちが増えてくれれば、それはそれで嬉しいですが、気にしてないといえば気にしてないし(笑)。「こいつら、凄い影響受けてるな」というグループにはまだ出会っていないし。たぶん詞の世界とか、なかなか雰囲気を作れないんじゃないかと思いますね。そう簡単に雰囲気を掴まれてもイヤですけど(笑)。

ソロ・コンサートはどのような内容になりますか?

復活して何年かやってみて、やっぱりNSPって凄くいいな、という実感があって、そういった楽曲を歌い継いでいきたいという思いがあります。基本は、NSP時代に自分の持ち歌だった曲、レコードでは天野が歌った曲でもコンサートでは僕が歌っていた曲がメインですね。それに加えて、ソロ時代に作った曲や今作っている曲、コーナー的に、天野が歌っていた曲で僕が好きな曲、といった3色を出せればいいなと思います。ファンの人からしてみれば、この曲は歌っちゃいけないだろう、という微妙な曲もありますからね(笑)。ここまでだったらいいだろう、というラインが自分の中にあります。楽しみにしていただければと思います。

NSPとして3人が揃うことは叶わぬこととなってしまったが、NSPが残した歌、天野滋が残した歌は、これからも新たなファンに聴き継がれ、往年のファンの心を癒し、永遠のものとなっていくだろう。中村さんのソロ活動にも、沢山のファンの注目が集まるだろう。NSPを愛する人の輪がいつまでも天国からの光で輝き続けることを祈りたい。それは、NSPを大事に聴き続けてきた自分自身への誇りでもあるのだ。
(取材&テキスト/遠藤哲夫)

Single Discography

「あせ」
1973/10/10 Release

01.
あせ試聴
02.
ちょうちょ試聴

ダウンロード価格 トラック 各\210-(税込)
※「あなたこっちを振りむいて」「シェイキンLADY」の2枚のシングルは、現在OnGenでは配信しておりません。

Profile

岩手県の一関工業高等専門学校(高専)に在学していた天野滋、中村貴之、平賀和人の3人で1972年にニュー・サディスティク・ピンクを結成。その後、音楽の方向性をフォークへと変え、グループ名をNSPとした。デモテープ「あせ」が岩手のNHK-FMリクエストアワーで取り上げられ、11週間連続1位となる。第5回ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)の東北大会、本選大会へと出場し、1973年6月に「さようなら」でレコードデビュー。

高専を卒業後の1974年に上京し、本格的に音楽活動を開始。4枚目のシングル「夕暮れ時はさびしそう」が35万枚の大ヒットとなり、叙情派フォークの代表的グループとして一世を風靡する。

1985年に中村がソロ活動を目指し脱退。新メンバーを2人加え、4人組のNSPとしてスタートを切るが、1987年に平賀が脱退したことで、グループは自然消滅となった。この時点で、シングル通算28枚、アルバム通算21枚(ベスト盤2枚を含む)をリリース。

2002年、16年ぶりにオリジナルメンバーで復活。1月にセルフカバー・アルバム『p.s.NSP』をリリースし、東京・大阪で復活コンサートを行う。2003〜2004年にかけて全国でホールツアーを実施。2005年2月には19年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Radio Days』をリリース。

2005年7月1日、脳内出血のために天野が逝去、享年52歳であった。残った中村、平賀の二人は2007年7月1日、NSPとして最後のコンサート「NSP LIVE 2007 SONGS〜歌は世につれ〜 天野滋トリビュート」を開いた。

Information

[画像]

◆中村貴之 TOUR2008「まだまだやるよ!」


2008年1月26日(土)
ラフォーレミュージアム原宿
開場 17:00 開演 17:30
問合せ:ディスクガレージ゙ TEL 03-5436-9600


2008年2月1日 (金)
名古屋TOKUZO
開場 18:00  開演 19:00
問合せ:サンデーフォークプロモーション TEL 052-320-9100


2008年2月2日(土)
Live Osaka KOO'ON
開場 14:00 開演 14:30
問合せ:夢番地大阪  TEL 06-5341-3525


2008年2月2日(土)
Live Osaka KOO'ON
開場 17:00 開演 17:30
問合せ:夢番地大阪  TEL 06-5341-3525


2008年2月9日(土)
仙台retro Back Page
開場 17:00 開演 17:30
問合せ:GIP  TEL022-222-9999

Links
あのとき君は若かった!世代別検索はこちら

[スナップ写真]

>>ページTOPへ

Music Lounge Artist Special Play List Vol.26
JK

ブラザーズ・フォー
「花はどこへ行った」

※現在OnGenでは配信しておりません

関連楽曲:キングストン・トリオ
「花はどこへ行った」

JK

サイモン&ガーファンクル
「ボクサー」

※現在OnGenでは配信しておりません

JK

イーグルス
「ホテル・カリフォルニア」

※現在OnGenでは配信しておりません

JK

赤い鳥
「竹田の子守唄」

※現在OnGenでは配信しておりません

関連楽曲:紙ふうせん
「竹田の子守唄」

JK

美空ひばり
「悲しい酒」

※現在OnGenでは配信しておりません

ルーツは古賀メロディ!? 赤い鳥やサイモン&ガーファンクルに夢中だった頃・・・、でもハード・ロックも好きだった!

まず先程も出ましたけどカーナビーツの「好きさ好きさ好きさ」。バンドに目覚めたということで。人前でやる前にそのバンドは解散しちゃいましたけどね(笑)。「花はどこへ行った」は、これを聴いてハモりっていいいなと思いましたね、自分でもハモりたいなと。いろんな人が歌ってますけど、ブラザース・フォーで。次は、サイモンとガーファンクルかな。いっぱい影響を受けてるんですが、「ボクサー」を。これがスリー・フィンガーとの出会いですね。あ〜、こういう弾き方があるんだと。練習はそんなに熱心じゃなかったですね。わりと器用っていうか、何でも、始めるとある程度まではすぐに上手くなるんですけど、そこから先が・・・。
グランド・ファンクの「孤独の叫び」ですが、カッコいいなと思って、これでまたドラム・セットをアパートに置いて、フルパワーで叩いてましたね(笑)。赤い鳥スタイルのグループをやってる時に、自分ではドラムの練習もしてたんですね。「ホテル・カリフォルニア」は、これは頭をガ〜ンと殴られたような衝撃を受けました。ホントに聴きまくりましたね。
「ホテル・カリフォルニア」が出たところで、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」を。コーラス・グループは大好きでしたね。レコードを聴いて、自然とハーモニーの勉強になってるんですね。その当時は、この響きは不思議だなと思ってるだけなんですけど、完コピでやってると難しいコードでも知らないうちにやってるんですよね。後になってわかったことですけど。NSPになる前ですけど、赤い鳥スタイルのバンドはかなりレベルが高かったと思いますよ。そこで、赤い鳥の「竹田の子守唄」も。赤い鳥は、岩手にコンサートで来たときに見に行って、出待ちをしてメンバーの皆さんと話をしたことがありますね(笑)。赤い鳥と五つの赤い風船は、ホントによくコピーしました。
キロロの「未来へ」。これは音楽から離れていたときに、久しぶりにいい曲に出会ったな、と思ったんですね。NSPをちょっと思い出すような・・・。これの前の「長い間」からいいなと思って聴いてたんですが、あういう素朴な感じが嬉しくて、これが売れるっていうのは、まだ音楽も捨てたもんじゃないなと思いましたね。それと、夏川りみの「涙そうそう」。あの声にやられました。
最後は、異色なところで美空ひばりさんの「悲しい酒」。僕がギターを始めた時、最初はガット・ギターだったんです。当時は練習本というのもあまりなくて、“古賀メロディーを弾く”みたいな本で練習してたんです。自分でお金を出して買ったはじめてのレコードが『森進一、古賀メロディーを唄う』で(笑)、古賀メロディーのギターを練習したかったからなんです。その中で一番好きだったのが、「悲しい酒」ですね。今でも、酔っ払うと、美空ひばりさんになりきって歌っちゃいますよ(笑)。

>>ページTOPへ





トラックバック
このページはトラックバックが可能です。
トラックバックとは
この記事のトラックバックURL
  http://www.ongen.net/trackback/tb.php?no=2449704
■トラックバック一覧