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FEATURED ARTIST 久世光彦 特集 |
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人それぞれの人生にそれぞれの思い出があるように、それぞれの歌がある。
歳月に流されているうちに、『昭和』という時代が朧になってゆく。
あのころは、ゆっくりと流れる時間の中に町のざわめきが聞こえ、どこの家にも暮らしの匂いがあった。それは幸福な風景だった。
そして、そこにはいつも歌が、暖かい春風のように流れていた。
失いたくない、忘れたくない昭和。
それぞれの昭和に、忘れられない『歌』がある。
もし、人生の節目に、そのときの心情を表す歌を一曲だけ選ぶとしたら、あなたはどんな歌を選びますか?
今までの人生を振り返る時、思い出とともに甦ってくるのは時代の風景と時代の歌。
歌は、その人の人生そのもの。
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『マイ・ラスト・ソング〜昭和恋々』
〜番組オープニング・ナレーションより |
久世氏の最後のドラマ企画となった、リリー・フランキー原作の「東京タワー〜オカンとボクと、時々、オトン〜」が、フジテレビ系で放送される。最終決定稿の打ち合わせを終えた翌日の朝に、急逝してしまった。作家としても活躍し、著作も数多いが、昭和の歌謡曲や古いポピュラー音楽について語った連載エッセー『マイ・ラスト・ソング』は、ある意味で久世氏のライフワークともいえるものだ。自身が手がけたドラマの中でも、「街の灯り」をはじめ、「北へ帰ろう」「林檎殺人事件」「世迷い言」など、多くのヒット曲を生み出した久世氏ならではの音楽に対する愛情が滲み、ほろ苦い青春の思い出や、深い時代考察と共に語られる昭和の歌の数々は、さまざまなの思いを胸によみがえらせる。
今回の特集では、久世光彦の著作『マイ・ラスト・ソング』の中で語られている曲や、USENの音楽番組『マイ・ラスト・ソング』で取り上げた曲のなかから、忘れられない“昭和の名曲”を紹介します(曲の解説は久世氏の著書を参考にしています)。
*曲目の後の番号はプレイリストの曲番号です
◆「港が見える丘」(01)
「同棲時代」や「修羅雪姫」で一世を風靡した劇画家、故・上村一夫が好きだった曲だそうだ。戦後間もない昭和22年、平野愛子が歌ったこの曲。あなたと二人で来た丘に、色あせた桜が淋しく咲いていて、その花びらがチラリホラリと二人にふりかかる、という情景の中に、どこか退廃的な匂いもする。久世氏は、命がもうじき終わるというとき、この曲を聴きたいと書いている。
◆「影を慕いて」(02)
古賀政男が残した名曲であり、佐藤千代子が明大マンドリン倶楽部の定期演奏会で歌ったのが最初で、藤山一郎の歌で昭和7年にヒットした。久世氏は、四谷シモンの「影を慕いて」が絶品だという。あまりに壮絶で、聴いているうちに死にたくなるのだそうだ。レコードにはなっていないが、USENの番組のために特別に録音したものがある。
◆「何日君再来」(04)
久世氏には、いつ聴いても、どんな人が歌っていても必ず泣いてしまう歌が3曲あるという。「おもいでのアルバム」「何日君再来」「讃美歌312番」だそうだ。「何日君再来」は上海映画の挿入歌だったもので、日本では昭和14年に渡辺ハマ子の歌でヒットした(李香蘭も歌っている)。久世氏は幼い頃、歌詞の最後に出てくる“何日君再来”の意味がわからず、後に高峰三枝子の映画「いつの日君帰る」で、やっと謎が解けたそうだ。
◆「蘇州夜曲」(05)
飛行機嫌いの久世氏が、その怖い飛行機に乗ってでも行きたい場所として、上海・蘇州と旧満州をあげていた。行ったこともないのに“懐かしさ”を覚える場所。そういった大陸への夢を情緒的に育ててくれたのが、「上海の花売り娘」や「支那の夜」といった歌謡曲だった。その中でも昭和15年に霧島昇と渡辺はま子によって歌われた「蘇州夜曲」は、戦争中は感傷的であるとして放送禁止になったが、‘鐘がなります 寒山寺’という歌詞から浮かぶ情景に、蘇州への想いをずっと抱いていたそうだ。
◆「バイヤ・コン・ディオス」(06)
高校の同級生の母がやっていた遊郭街にあるバー。久世氏は、その店の2階によく上がりこんで、店でかけているジャズをぼんやりと聴いていたという。その頃に流行っていたのが、レス・ポールとメリー・フォードで、閉店の時間になると「バイヤ・コン・ディオス」(さよならの意)が流れた。不良に憧れていた頃の、ほろ苦い思い出が著書で語られる。
◆「19の春」(07)
今回、TV放映される「東京タワー」でも主演されている田中裕子さんの得意のレパートリーであると、著書に書かれている。元々は沖縄民謡だったものを、昭和50年に田端義夫が歌ってヒットさせた(さらにその元唄が、奄美大島の朝崎辰恕が作った「嘉義丸の歌」で、その娘が朝崎郁恵である)。最近では、映画「ナビィの恋」の中でも歌われていた。その「19の春」であるが、久世氏は‘たかが、19の娘の恨みつらみ’に深い悲しみを聴いていた。
◆「みんな夢の中」(08)
そもそも、「マイ・ラスト・ソング」というのは、故・浜口庫之助さんとの会話の中で出た話題だそうだ。「音楽葬というのはあまり好きじゃない。僕なら、僕がいちばん好きだった歌をやって欲しいね」というような発言がきっかけとなっている。久世氏は、ハマクラさんには名曲がたくさんあるが、ベスト・ワンは「みんな夢の中」であると述べている。昭和44年に高田恭子が歌い、最近ではおおたか静流がレパートリーにしていた。
◆「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(09)
ご存知、映画「カサブランカ」の中で、イングリット・バーグマンが‘Play It Again,Sam’とリクエストするあの曲。戦後、堰をきったように流れ込んできた外国映画。映画の中の歌は、絵と一緒に記憶に残っている。通俗的な歌ほど、妙に胸に響く、と久世氏は語る。もう帰ることのできないあの頃の自分が見えてきて、思い出しても仕方がないことまで思い出させる、と。
◆「海ゆかば」(11)
皇国思想そのもの、ということで“懐かしのメロディ”といった類の番組では流れることのない「海ゆかば」。久世氏は、この曲を、過去の歌として葬ってしまうにはあまりに口惜しいとして、96年の終戦ドラマ「言うなかれ、君よ、別れを」で使った。「海ゆかば」を喇叭で吹くシーンを流したのだ。驚くほどの反響があったという。久世氏は「海ゆかば」の彼方に日本の山河を見ると書いている。そこには深い鎮魂の響きがある。
◆「ダニー・ボーイ」(14)
“マイ・ラスト・ソング”シリーズの第4弾のタイトルにもなった「ダニー・ボーイ」。元歌は「ロンドンデリーの歌」として知られるアイルランド民謡である。後にいろいろな歌詞が付けられ、最も有名なのが「ダニー・ボーイ」だ。久世氏はこの曲を、昔の、ナオミという女性の思い出とともに語っている。曲と同じように、どこか悲しさと愛情が漂う思い出だ。
◆「テネシー・ワルツ」(15)
終戦後、ハリウッド映画やジャズが再び巷にあふれるようになり、高校生だった久世氏は“パティ・ペイジ”と表紙に書いたノートに、せっせと彼女のヒット・ナンバーの英語の詞を書いていたそうだ。江利チエミが昭和27年に大ヒットさせた「テネシー・ワルツ」は、半分は英語、半分は日本語で歌われていた。久世氏の世代にとって、“パティ・ペイジの時代”は特別で、少年から大人へとなろうとしていた時期、パティ・ペイジの歌の中で、絶え間なく心が揺れていたと語る。
◆「夜の銀狐」(27)
故・中山大三郎が残した名曲は「人生いろいろ」「珍島物語」など数多いが、久世氏は特に「夜の銀狐」と「思い出さないで」を傑作に挙げる。「夜の銀狐」は、昭和44年に作られたラテン調のムード歌謡である。“銀狐”とは、普通の狐のマフラーよりも高級な、クラブのママのステータスといえるものだが、男たちが口説き文句に‘エプロン姿が似合う’をよく使ったというエピソードも、何故か可笑しい。
◆「夢は夜ひらく」(28)
「夢は夜ひらく」という曲は、園まり、三上寛、藤竜也なども歌っている。メロディは一緒だが歌詞がそれぞれ違う。‘十五、十六、十七と 私の人生暗かった’という、石坂まさを作詞による藤圭子のものが強烈だ。最初の「夢は夜ひらく」は園まりが歌ったもので、たくさんの作詞家が、それぞれの青春を涙を零しながらこのメロディに託した。藤竜也のバージョンは久世氏が作詞したもので、藤竜也と私の“青春の歌”だと書いている。
◆「今日でお別れ」(31)
昭和40年の「知りたくないの」のヒットで世に出た菅原洋一。このレコード大賞受賞曲ともなった「今日でお別れ」も同じ、なかにし礼の作詞によるもので、いわゆる“女歌”である。なかにし礼の当時の“同棲ソング”のほとんどが、女の一人称体で書かれていて、女性の歌手に歌われることが多かったが、菅原さんの「今日でお別れ」は、その意味でもユニークだったと、久世氏は述べている。
◆「北へ」(32)
小林旭主演の映画「渡り鳥北へ帰る」のテーマ曲ともなって大ヒットした「北帰行」。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」もそうだが、久世氏演出の「寺内貫太郎一家」から生まれた「北へ帰ろう」など、北へ帰る歌は数多い。その中でも、久世氏が一番好きだというのが、これまた小林旭の「北へ」。さびれた港町の風景が浮かび、胸の中に滲むように、悔いが広がっていくと語る。
◆「女ひとり」(34)
加藤登紀子の「琵琶湖周航歌」と並べて取り上げられているのが、“ご当地ソング”としても広く歌われている「おんなひとり」。今から40数年も前、氷雨が降る冬の早朝、久世氏は大原(三千院)の竹林を訪れたそうだ。そこには寒い夢の中のような風景が広がっていたという。永六輔が作詞した「おんなひとり」は、一幅の淡彩画を描くように、古くて新しい“和のこころ”を織り込んでいる、と久世氏は書いている。
◆「プカプカ」(36)
70年代フォークの中でも、西岡恭蔵と大塚まさじの“ディランU”によって歌われた「プカプカ」は、哀れなサーカスにジンタの音のように聴こえたり、教会の讃美歌みたいに聴こえたりする、奇妙で忘れられない歌だったと久世氏は書いている。‘あたいとあんたの死ねる時わかるまで、あたい占いやめないわ’という歌詞のように、西岡恭蔵は、奥さんの祥月命日に自殺したのだった。
◆「黒の舟唄」(37)
野坂昭如が歌った「黒の舟唄」は、人に聴いてもらおうという謙虚さや真面目さがない、と言いつつ、どうしてこんなに胸に引っ掛かるのだろう、と久世氏は語る。後に、加藤登紀子、長谷川きよしなども歌ったが、まるで呪文のように垂れ流される野坂さんの呟きは、他の誰にも真似ができないものだった。久世氏の、いくら捨てようと思っても、いつの間にか胸の底に沈んで積もる、“澱”のような歌もある、という言葉が重い。
◆「さざんかの宿」(39)
久世氏のたとえも強烈だが、大川栄策の「さざんかの宿」を聴くと、おみくじで“凶”をひいたような気分になる、とはあんまりな気がする。だが、“吉”を夢見るのも人情なら、“凶”と抱き合って奈落の底へ堕ちたいのも人情である、という一文にいたく感じ入ってしまった。曇りガラスを拭いても拭いても、明日が見えないのが人生だ、と久世氏は語っている。
◆「昭和枯れすすき」(40)
「時間ですよ・昭和元年」の中で使われた、さくらと一郎による「昭和枯れすすき」は、100万枚を超える大ヒットとなった。わけありの男女の悲恋のシーンに流れる、絶望的に暗い歌である。久世氏は、‘おれは河原の かれすすき’と歌われる「船頭小唄」を引き合いに出して、その暗さを語る。「時間ですよ」のシリーズで繰り返し、悲恋のカップルを登場させたのは、東映の任侠映画へのオマージュだったそうだ。
◆「大阪で生まれた女」(47)
中学生の頃、いつもボロ自転車に乗っていたから、ボロと呼ばれていた。そのあだ名を芸名にしたBOROが作った曲が「大阪で生まれた女」である。ショーケン(萩原健一)が歌って最初にヒットさせた。‘東京へはようついていかん’と逡巡していた女が、‘あなたについてゆこうと決めた’。この歌が、ありきたりの感傷に堕していないのは、不安を抱きながらも、二人で寄り添っていく姿が、シンパシーを誘うからだと、久世氏は述べている。
◆「我が良き友よ」(49)
久世氏の連載エッセー「マイ・ラスト・ソング」の最後の原稿となった「我が良き友よ」。久世氏の兄が、久しぶりに旧制高校時代の同級生と会った時の様子が語られる。久世氏も同席して、終戦間もない頃の青春を思い出す。「我が良き友よ」は、吉田拓郎がかまやつひろしのために作った曲だ。‘今の暮らしにあきたら二人で 夢をかかえて旅でもしないか あの頃へ’。久世さんは、そして旅立っていった。
ここで紹介した曲は、著書『マイ・ラスト・ソング』(シリーズで全5冊)で取り上げられているの歌のほんの一部です。是非、本を手にとって読まれることをおすすめします。そして、懐かしくてもう一度聴きたくなったり、知らないけど興味をもたれた方は、USENの番組やOnGenのダウンロードで、直接歌に触れてみてください。そこから、あなたの「マイ・ラスト・ソング」への旅がはじまるのです。
(Text:遠藤哲夫) |
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| *印の曲はオリジナル・アーティストではなくカバー楽曲となります |
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久世 光彦(くぜ てるひこ)
1935年4月19日 − 2006年3月2日
昭和10年(1935)、東京都杉並区の阿佐谷生まれ。
富山県富山市で育ち、東京大学文学部美学科卒業後、ラジオ東京(現・TBS)に入社。演出家、プロデューサーとして「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」「ムー一族」 などテレビ史に残る数多くのテレビドラマを手がけた。
1979年に独立し、制作プロダクション「カノックス」を設立。向田邦子原作によるテレビドラマ「女正月」「わが母の教えたまいし」「思い出トランプ」「終わりのない童話」「あ・うん」「風立ちぬ」など、多くの名作を残す。
テレビドラマの制作を行なう一方で、映画監督や舞台演出、脚本、エッセイ、小説の執筆など活動範囲を広げる。代表的な著作には『蝶とヒットラー』(第3回Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『一九三四年冬―乱歩』(第7回山本周五郎賞)、『蕭々館日録』(第29回泉鏡花文学賞)などがある。
別名義で歌謡曲の作詞も手がけ、天地真理「ひとりじゃないの」(小谷夏名義)や香西かおり「無言坂」(市川睦月名義)などをヒットさせた。
平成18年3月2日、虚血性心不全のため都内の自宅で死去。
>>株式会社カノックス |
| 1992年から、雑誌「諸君!」で連載されていた「マイ・ラスト・ソング」。14年もの長期連載が単行本化されて、そのシリーズ第5作目が『マイ・ラスト・ソング 最終章』である。北原白秋の童謡から、「侍ニッポン」のような昭和初期の歌もあれば、歌声喫茶で歌われた「草原情歌」、「カスバの女」や「夜の銀狐」などのネオン街の酒場が似合う歌、そして最後の原稿となった「我が良き友よ」など、昭和を彩った20数曲の歌についての思い出や、その時代の空気が語られる。 |
2002年10月よりUSENで放送開始されたラジオ番組「マイ・ラスト・ソング」。
この番組は、久世光彦の書いた文章を朗読しながら、その時々の時代に風景に触れ、そして、その時代に聞こえていた歌を流す〈ラジオ番組〉です。
今年の3月2日、久世光彦は、突然この世を去りました。
番組では筆者の遺志を継ぎながら、この秋「マイ・ラスト・ソング〜昭和恋々」としてリニューアル。今までの〈音楽エッセイ〉中心の朗読から、久世光彦が書いた〈小説〉や〈人物エッセイ〉なども原作として用い、番組を構成しています。
俳優の松山政路が原作者・久世光彦役を演じ、単に朗読という枠にとどまらない、声の演技で、リスナーにとってはラジオドラマのような番組としても楽しめます。
また、案内役であるフリーアナウンサーの城ケ崎祐子が朗読の合間に、昭和のそれぞれの時代背景や楽曲の解説を施し、その時代にまつわる歌がフルコーラスで流れます。
この番組はラジオドラマのようでありながら、音楽教養番組のような側面も合わせ持ったユニークな番組です。 |
| *番組のオープニング・ナレーション(約2分間)がお聴きいただけます |
松山政路 公演Information
2006/11/05〜11/29 名古屋 中日劇場
「いろどり橋」
2007/01/02〜01/27 名古屋 中日劇場
「あかね空」
2007/03/03〜04/22 明治座
「忠臣蔵−いのち燃ゆるとき」
2007/04/29〜05/24 大阪 新歌舞伎座
川中美幸特別公演
2007/06/15〜06/17 俳優座劇場
「神様が眠っていた12ヶ月」
*2006/11/14付けの「夕刊フジ」に、USEN「マイ・ラスト・ソング」の記事が掲載されました。 |
「マイ・ラスト・ソング〜昭和恋々〜」
USEN CG29チャンネル〈昭和ラヂオ 〜美しき日本の歌たち〜〉にて放送
1時間番組 隔週月曜更新
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Patti Page パティ・ペイジ テネシーワルツ from: Melody Talk |
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テネシー・ワルツ 〜ベスト・オブ・パティ・ペイジ〜 パティ・ペイジといえばテネシーワルツ、テネシーワルツといえばパティ・ペイジ・・・というぐらいに切っても切れな |
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トラックバック時刻:2008年03月28日 00時25分 |
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